「女」が「人間」であったドラマ 鎌倉殿の13人

鎌倉殿の13人最終回すっげ~~~~………。脚本、演技、演出の全てが噛み合いこれまで体験したことのない境地を味わい観ることになりました。凄かった…。大河ドラマをほぼ最初から最後まで見たのは「いだてん」以来ですが(いだてんも超面白かった)最高でしたね。

面白かった理由はたくさんありますが、私は鎌倉殿の13人において、「女」が皆「人間」として描かれていたことも理由のひとつだと感じています。

その辺をツイートしたのですが、もっとちゃんと書きたいと思い、ブログにしました。

当たり前のことながら「女」は人間なんです。人間だから自分の頭で物事を考えることができるし、あえてを思考を拒否することもある。環境に悩まされることもある。楽しい嬉しい悲しい悔しい様々な感情がある。好きなもの嫌いなものがある。だって人間だから。

そんな当然のことが忘れ去られていた物語や作品、少なくないでしょう。たとえば「母」として、「妻」として、意地悪な「お局、姑」としては登場する。ただそれだけ。その世界に都合の良い存在、主人公をケアするだけの存在、読者視聴者のヘイトを集約するためだけの存在、主人公やヒロインの良さを輝かせるためだけの存在としての女がこれまでたくさん生み出されていました。記号的な存在と言い換えてもよいかもしれません。ヒロイン自身が記号的であることも多々あったかも。

そういう作品だからといって即つまらないと断定することはできません。でも私は女性の登場人物が、何を考え、何に悩み、何がきっかけでそうなったのかが見たかった。別にケアする女性を描かないでほしいというわけではない。でも他者をケアする役割に至るまでの気持ちや出来事といった過程を知りたかった。物語の世界、あるいは創り手にとっての便利な単なる「装置」ではなくて、その物語の世界を生きるひとりの「人間」が見たかった。そんな願いを鎌倉殿の13人は叶えてくれました。

それはいろいろな形で表現されていたなあと振り返ってみます。以下3タイプに分けてみました。各章2人づつ登場します。

 

以下まあまあしっかりネタバレ含まれますのでご注意ください。

「役割」に苦しむ女 八重と大姫

まず象徴的な人物一人目が八重新垣結衣)です。八重は、伊東祐親の娘であり、頼朝と子をなし、義時の最初の妻でもあります。八重は父、伊東祐親の意向に悩まされ、想い人の頼朝には蔑ろにされ傷ついていることが丁寧に描写されます。祐親なりに娘を愛している。しかしその愛は八重を縛り付け苦しめるものである。娘を所有物としてみなしているからこその愛情の形でした。伊東家は家父長制の象徴とも取れるかもしれません。八重も父のことが嫌いというわけではない。感情の板挟みです。それでも悩みながらも八重は自分の心に従い、伊東の立場に反して北条の館に矢文を飛ばすという行動に出ます。

そして義時の想いに応えたのもただ義時のしつこさに折れたからではありません「(八重さんが)振り向かなくても構わない。背を向けたいのならそれでもいい。私はその背中に尽くす。八重さんの後ろ姿が幸せそうならそれで満足です。」という義時の最終的な言葉は、八重からの見返りは求めていません。慕う気持ちの中にも八重自身を尊重する意味合いが強く込められています。これまで自分の意志や気持ち、大切なものが蔑ろにされ続けていた八重には嬉しい言葉であったことと思います。だから決定打になれたのでしょう。

メタ的な視点になりますが、新垣結衣という日本でもトップクラスに人々が理想を抱くミューズのような存在となっている女優に(逃げ恥のみくりと同様「人間」である)八重役をあてがった三谷幸喜氏の妙を感じました。

また、頼朝と政子の娘、大姫南沙良)にも「将軍源頼朝の娘」という「役割」に苦しむという形で人間性が浮き出ていました。京の貴族、一条高能と婚姻するという流れです。大姫には幼き頃から源義高(市川染五郎)のことが好きであり亡き後もずっと忘れられない。そのため知らん人との政略結婚はしたくないという感情があります。この時代の政略結婚は日常茶飯事だったのでしょうが、日常茶飯事だろうと当人には当人なりの意志があり嫌がる場合もあるということが丁寧に描写されていました。政略結婚はとある利益のために、当人の人間性が無視されるという暴力性を孕みますが、それが近現代が舞台ならまだしも、鎌倉時代を舞台にした作品で描かれたことには驚きます。

 

「役割」を全うした女 政子と巴御前

ここでは源頼朝の妻、義時の姉、尼御台となる北条政子小池栄子)それから、木曽義仲の家人でありのちに和田義盛の妻となる巴御前秋元才加)を書かせてください。

まず政子です。政子はたしかに頼朝の妻であり、最終的には世間一般によく知られる「尼将軍」になります。きっちり「役割」を果たす女です。ただ、そこまでの過程がこれまた超絶丁寧に描写されていました。

政子のパーソナリティは主役級ポジションということもありたくさん描写されていますが、私は江口のりこ 頼朝の浮気相手)に諭されるシーンが大好きです。ちなみに第12回「亀の前事件」はドラマ鎌倉殿の13人に対する信頼が一気に高まった回です。なんやかんやののち、政子は亀に「あなたは坂東の憧れとなる女。教養を身に付けなさい。」と諭されます。田舎の豪族の娘が最高権力者の妻になるとはどういうことか、理解し受け入れるのです。ここで政子と亀の関係を、男を奪われた女と奪った女の醜い嫉妬による争いにしなかったところが新しくて良かったな…。また政子は京の丹後局鈴木京香)からも厳しい洗礼を浴びます。この2つのくだりがあるからこそ、政子はその後努力し続け、将軍の妻としての相応しい振る舞いができるようになったと想像できるのです。また亀と丹後局もこのような言葉をかけるからには、裏で苦労や努力をたくさんしたのだというこもが想像つきました。

さらに政子が尼将軍になるにしても、頼朝の妻だから自動的になれたということではない。頼朝亡き後も政子は政治にはかかわらないスタンスでいたが、妹の実衣を救いたいという気持ちのために覚悟を決めるという描き方でした。ここからも政子の思考と感情すなわち人間性がありありと伝わります。当たり前ですが「役割」を果たすためには努力も覚悟も要るのです。女だからすぐに「相応しく」なれるわけではないのです。

 

巴御前もとても魅力的でした。私が鎌倉殿の13人により良さに気づき好きになった役者の一人は巴御前を演じた秋元才加です。巴御前木曽義仲の家人として、女ながらに男の武士とともに武装し戦う人物として登場します。普通と違うこの特徴があるから、他が適当でもある程度巴御前人間性は保障されるのですが、鎌倉殿の13人はそこに甘えない。まず木曽義仲を心から敬愛していること、そしてそれへの誇り、義仲の最期の言葉への葛藤が素晴らしい。そこからなんやかんやあり最終的に「我こそは忠臣和田義盛の妻、巴なるぞ!」という言葉を高らかに叫び、作品からは退場します。「忠臣和田義盛の妻」という言葉は、一見すると「妻」という役割から逃れられていないように聞こえます。でも視聴者は和田義盛巴御前の対等で仲睦まじく楽しい夫婦生活をたくさん見ました。和田の館は実朝の心のオアシスにもなります。

巴は義仲家人時代には「木曽義仲第一の家人」とこれまた誇り高く叫んでいるのです。それが「忠臣和田義盛の妻」という言葉に変わる。義仲が死に自分は捕虜となり最初は虚脱感や苦しみ、希死念慮も抱いていたであろう巴御前が、義盛との夫婦生活との中で人間らしさを再度取り戻し第二の人生を歩めた。その経験への感謝と夫義盛への愛情と敬意が「忠臣和田義盛の妻」という叫びに集約された。巴御前、素晴らしかったですね。俺はずっと和田義盛巴御前の生活を見ていたかったよ…。

 

「悪女」だけではない女 りくとのえ

時政の妻、義時の義母であるりく宮沢りえ)、それから義時の三番目の妻のえ菊地凛子)の話もさせてください。

まずりくです。りくを端的に表すと「年上の夫をたぶらかし、政治に混乱をもたらした悪女」と言えます。それはたしかにそう。だってりくの暴走が畠山重忠の死に繋がっている。りくの権力欲、田舎を嫌う都への欲だって何度も描かれます。でもそれだけだったら、私は最終回の元気なりくの登場に安堵しないんですよ。だって「悪女」という側面以外の人間性もたくさん見たから。

たとえば夫の時政を「しいさま」と呼び、慕う気持ちはなんだかんだ本物です。(ちょこちょこ若い男も好きですが。)伊豆で慣れない農作業に手を臭くしながらも取り組む姿、寺に政子実衣とともに閉じ込められたときの思い出を楽しかったと振り返る姿、北条家が楽しそうに集まる中ひとり寂しく息子の遺髪を抱える姿がりくをただの「悪女」という記号的な存在にさせませんでした。頼朝に「京から坂東に下ったみやこびと同士」として語りかける姿も良かったなあ。やったことはまあまあひどいのに視聴者は愛着を持てるキャラを描きたいならりくを参考にしてほしい。

のえも良かったよねえ…。まあキャストが菊池凛子な時点で適当に済まされるわけではないことは予想できましたが。のえも言うなれば「夫であり執権の義時に毒を飲ませた悪妻」です。この行為自体悪行としか言いようがない。のえは別に賢く出来た妻というわけでもありません。ばれないよう仕事もせずにつまみ食いしたり、友人との愚痴合戦は楽しそうです。そして義時には自分の子政村を跡継ぎにするよう何度も迫ります。その願いもかなわないと分かり毒を飲ませる。でもその行動の原因を全てのえ自身だけに起因させない脚本が見事でした。義時は、八重、比奈のときと違い、のえのことは全然見ません。感情を通わせることは一度もなかった。それは最後の最後までそうでした。だからのえは寂しさや不満を抱いた。もともとのえの性格に何の難もないわけではないですが、義時にも要因はあるよねという描き方がフェアだと思いました。

あと多分のえは本当のところでは権力欲は薄く、のんべんだらりしたいタイプです。祖父の二階堂行政の意向に従わなければならない、夫の義時は自分に興味を示さないという状況はたとえ元々図太さがあろうとも辛かったことと思います。そんなのえが最後的確に義時の弱点を刺すの痺れたね。人は相手をちゃんと見てるのよ…。

 

こんな感じで、女がひとりひとり「人間」だったのです。他にも実衣も比奈もトウも人間だった。また女同士が争うとき*1、そこにはシステムや間にいる男にも問題があるということもちゃんと描いていた。女の嫉妬は怖いねえ的ノリに収めなかった。それから私も文章を書いていて気づいたのですが、登場人物の名前はすぐに出てきます。この事実からも女が「人間」であったことが分かります。「政子の妹誰だっけ…」ではなく、「実衣役誰だっけ…」という思考回路です。*2 でも言葉で表現しようとすると「○○の娘」「○○の妻」「○○の姉/妹」という書き方しかできない。だけども当然その要素以外にも人間っていろいろある。

「おなごはキノコが好き」というくだりは主にコミカルシーンで用いられていましたし鎌倉殿の有名なセリフランキング上位に位置します。しかしそれだって「おなご」を「人間」として描くためにも使われていました。八重も比奈ものえも別にキノコ好きじゃない。そらそういうことはある。女だからという理由で好きな食べ物が決まるわけじゃない。プレゼントは渡す相手ときちんと向き合い、観察して選ばなければならないのは古今東西変わらない事実。好きな食べ物嫌いな食べ物もその人の人格を形成する大切な要素です。

そもそも人が人間らしさを失い「役割」を果たすことのみに終始するとはなにか、どうなるのかということ自体、批判的な視点も交え、小四郎・義時の生涯という形でずっと描かれていました。私欲には走らなくとも、それは淋しくて恐ろしい。男女問わず「人間」を描くことにこだわったドラマ、「役割」に自覚的なドラマ、それが鎌倉殿の13人であったと思います。

12月29日午後1:05〜 総集編が放送します。

放送予定 - 鎌倉殿の13人 - NHK

そして願わくばNHKオンデマンドに登録してでも(登録するとアマプラやUnextから観れます)全話観てほしい。

NHKオンデマンド (nhk-ondemand.jp)

*1:政子と八重 亀と政子 頼家の正妻つつじと側妻せつ

*2:実衣役は宮澤エマさん